2010年6月9日水曜日

午後からの哲学者




夏休み前。暑いけれど、耐えられないほどではない。蝉の声が開いている窓からけたたましく入り込んでくる。風は十五分に一度くらいカーテンを揺らして。くれれば良いほう。
昼食は終わったから後ろの直樹は教科書に隠れて眠っている。僕も少しは眠たいけど、眠るわけには行かないのだ。午後からは思索の時間である。と、決めているのだ。昨日から。なんてか、そんなのは適当な話で、今は歴史の時間である。僕は午後から哲学者を決め込む。って。なんの話だっけ。あれ。眠たいか。目の前にいるのは歴史の高橋。太めのくせに洒落くさっている。それで、生徒を見るときは、真正面から見るんだ。腰を据えて。こいつは。
高橋の授業は面白いと思う。歴史なんて面倒くさい、長ったらしい授業をなんとか面白くしようとしている。って、結構寝てるやつもいるけど。寝てるやつがいたら高橋はまず、そいつの名前を呼ぶんだ。苗字ではなく名前で
「直樹っ」
って。で、おまえ、寝るんなら
「運動場で寝ろ」
って言う。ソイツの目の前まで行ってしゃがみこんで、相手の顔をまっすぐ見て。そうすると大概のやつは、すみませんって言う。
「す、すみません」
高橋のこの注意の仕方は妙に迫力があって、だからみんなこれをやられたら大体は目が覚める。でも高橋はそのあと必ず
「眠かったら本当に寝に行っていいんだぞ。ただし運動場でだけどな」
と涼しい目をしながら言う。ほとんどの奴はそれで終わるんだけど、前突っ張ってる中田がいきなり立ち上がって教室を出て、運動場の真ん中で仰向きに寝転がったことがあった。誰もいない授業中のグラウンドで大の字になって、一ヶ月くらい前だっけ。んで目を瞑って眠ろうとしていた。六月の初めくらいにも関わらずその日はやたらと暑かった。午後の日差しは夏の気温を指していた。みんな窓のほうを見て中田の動向に目を見張ったんだ。高橋は少し笑って
「ほっとけ。授業するぞ」
と言った。それから僕は中田をしばらく見ていた。十分くらいすると、中田がふらつきながら立ち上がって、校舎に向かって走ってきた。で、教室に戻ってきて
「先生、あんなとこで寝れねえよ」
と言った。
「あたりめーだろ」
と高橋が言うと、みんな笑った。





***




 
太ったくせに妙に洒落くさっている高橋は、妻のプレゼントとかゆうネクタイを、このくそ暑い日に丁寧に締めて授業をする。人一倍汗を掻いているくせに。高橋はよく授業のはじめに
「え~、うちのかみさんは~・・・」
とうちのかみさんの話をする。もちろん歴史の授業とはなんの関係もない。で、その内容は、いつもうちのかみさんの自慢話で、簡単に言うとのろけである。で、そういう話に関心のある女子が
「先生は奥さんのことが好きなんですか」
という、聞いただけでも鳥肌の立つような質問をする。僕はこういうでしゃばった女が嫌いだ。すると高橋はまた、あの涼しい目をして
「ああ好きだ。おまえらもいずれわかる」
と言うのである。僕は不思議と鳥肌が立たない。





***





僕は午後からの哲学者である。非常に暑い。クーラーなどという近代の英知がない教室で。
教卓が黒板の中央あたりにある。僕の席はそのすぐ前。いつも、目の前に教師の姿を拝む格好になる。午後。注意された直樹も授業をまじめに聞いている。たしか新人戦が近いんだっけな。眠らせてやってもいいのに。なあ。いやいや。僕は哲学者である。午後から。午後から哲学するのである。哲学者である私は。
僕は考える。僕の座っている席と、高橋の立っている教卓の位置との果てしない距離について。高橋は、一体どんなことを考えて、どんな経験をして、今僕の目の前に立っているのだろう。今までに何人の生徒を教えて、何人の学生と話をして。
僕は小学校を出て、中学校に入って、それで今は二年だ。小学校では、運動も勉強もそこそこだった。野球は苦手だ。でもサッカーは好きだ。遠足もすきだったし、ひそかに編物も好きだったけどそれは内緒だ。友達に冷やかされたときからこのことは封印している。
高橋は一体どんなことをして生きてきたんだろう。なんで歴史なんて地味な勉強をしてきたんだ。そんなに面白いのか?日本の歴史なんて。僕はちっともその良さがわからん。でもきっと、この学問が好きなんだろうな、この人は。だって、今歴史の先生として、まぎれもなく僕の前に立っているんだから。ほかのことはわからなくても、それだけは確実にわかる。一つの物事があるとき、たとえその理由がわからなかったとしても、目の前で起こってる出来事を普通に見れば、わかることだってたくさんあるはずなんだ。どうだ。私は哲学者なのである。午後だけ。
この前放課後、委員の仕事があるからって、智子が教室に残っていた。僕も別にすることがなかったから智子と話していた。智子はなにか自分の机でノートを出して、必死に書いてて、僕はヒマになったから、黒板に絵を描いて遊んでいた。で、なかなか格好良い人間の顔が描けたから、智子に見てもらおうと思って、振り返って教卓に手をついた。で、そのとき思ったんだ。へえ。これが高橋の見てる風景なのかって。で、僕は高橋の真似をして、智子を呼んでみる。
「智子っ」
智子はこっちを向いた。
「はい」
「眠かったら、運動場で寝ろ」
智子はシャーペンの芯を頬で押して出しながら
「眠くはありません。」
と言った。
「そうか。」
どうやら高橋みたいには行かないようだ。





***





僕は考える。僕の座っている席と、高橋の立っている教卓の位置との、その果てしない距離について。僕は自分の立ち位置と、高橋の立ち位置とを比べて愕然とする。僕の座っている席と、高橋の立っている教卓との距離は目と鼻の先である。が、僕は一体、これからどれくらいの時間を費やして回り道をすれば、今高橋が立っている場所に到達できるのだろう。そもそも、いつか僕は、高橋のようになれるのだろうか。僕はふとした瞬間に、その果てしない距離ばかりをとりとめもなく考えてしまうから、そのあまりの遠さにビックリしてしまって、いつも身動きが取れなくなってしまうのだ。僕はこれからどういう道を辿っていくのだろう。僕が一年後にいる位置は。僕が十年後にいる場所は。いつか、そのとき、僕はどういう立ち位置に立っているのだろうか。


「勇太っ」
「は。」
「は、じゃねーだろ。ぼーっとするな」
「あ、は、は~い。」
「は~い、じゃねえよ。気の抜けた返事しやがって。運動場で寝てくるか。」
少し笑いながら高橋が言う。
「いえ、それは結構です」
高橋はほとんど怒ったことがない。
そういえば、この前の放課後のとき、高橋の真似をする僕を見て、帰りに智子が笑いながら言うのを思い出した。
「うまいけど、勇太は、高橋先生じゃあないよねえ」
午後からの哲学者は終わりのチャイムで姿を消すのだった。

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