2010年6月9日水曜日

二千九年、LOVE










伊藤正三がこれから向かう会合というのは所謂身内仲間で毎年何度か行う恒例行事のようなもので、最初は少数のやもめ連中で集まッていたのが何時の間にか十五人ほどに膨れ上がりその後は減ッたり増えたりを繰り返して現在に至ッている。
減ッたり増えたりする理由は様様であるが、暇な連中が主催する会合に来る者は何所かしら皆似た者ばかり、暇な人間の暇な友人であッたり、前日の合同コンパの後他人で無くなッた女をその侭引きずッてきたりと其其何所からともなく同類を連れてきては此の平屋に車座に四方山ッて、その侭朝迄飲み明かすのが常であッた。
今年も始まり春が来ると手始めにまず一度会合が開かれる事と成る。既に出来上がッている橋田端子と黒田ナンシイもこの会合が縁で知り合ッた仲間である。
「伊藤君遅いぢゃないかァ」
伊藤が扉を開けるとナンシイが鼻炎混じりで振向き云う。
「すまない、仕事が長引いてね。他の皆はまだかい」
橋田がいつも通り無言でサキイカを頬張ッている隣でナンシイが携帯を抛り投げた。
「僕はもう出来上がッてしまいそうだよ、気になるんなら自分で電話し給え。彼女に連絡してみてはどうだい?」
伊藤は酒で濡れているナンシイの携帯で芙蓉に電話した。
「もしもし、今何処に居るんだい?」
「もう近所迄来てますよ。今一寸Convenience storeで飲み物を買ッてるんです。何か買ッて行きましょうか?」
「いや、可いよ。それより、無事友人とは合流できたのかい?」
「エエ、駅迄の道程も問題なく来れたみたい。アァ、もう会計も済むので多分十分程で行けると思います。」
「そうか。それじゃァ、僕達は先に始めているね。もう大分暗いから気をつけて来るんだよ」
「………ナンだッて?」
電話を終えた途端にナンシイが話しかけた。
「もう到着するらしい。友人とも無事合流出来たとさ」
「オオ、それは好かッタ」
「好かッた、と云うのは友人のことかい?」
「エッ?」
「ハタチの娘が気になるんだろう」
「へへへ…、そりゃァ…気にならないッて云うのは嘘でしょう。そういう君はどうなんだよ」
「ソリャア、気にならないッてのが嘘でしょう。」
「そりゃそうだァー、へへ。おい橋田、酒呉れ酒」
橋田は云われた通りにナンシイのGlassに酒を盛る。此の橋田と云う女、特に必要のある時以外は終始無言で動作を行う。其れを最初は皆一様に奇妙と感じた物だが、幾度か交流を深めて行く内に皆彼女の作法に慣れてくる。彼女の所作から言動を読み取る事も出来るように成る。
「… ……」
「おッとッと、エヘ。サンキュウサンキュウ。ッたく、お前はもう一寸他人と会話しないと不可ないよ。今日の大和撫子たる者愛嬌が最重要なんだから。」
「…… …」
「マァー、黙ッて酒注いで呉れる所が好かッたりもするんだけどねェ」
「橋田さん、僕にも注いで貰えますか。… ……、あ。……ハイ、おッとッと。有難う御座います」
「イヤ、併し。芙蓉ちゃんもよく友人を連れてくる気になッたよなァ」
「……と云うと?」
「何云ッてるんだい。芙蓉ちゃんはこの会合のこと、あまり心好く思ッていないぢゃないか」
「そうなんだろうか?」
伊藤は表面張力の張ったGlassに一口付けながら云ッた。其れを半開きの眼で追いながら
「そうだよ。ッて、君は彼女と付き合ッていながら知らなかッたのかい?彼女が不満を漏らすのを聞く事もあるだろう」
とナンシイが云う。
「…いや」
「そうなのか?」
「ああ」
ナンシイは少し溜息しつつ伊藤の方を向いた。
「そうか。僕はてッきり君たちは話が通じていると思ッていたのだが…」
「芙蓉がそのようなことを云ッたのかい?」
「いや、そうは云わないが…只なんというか、そういうのは雰囲気でわかるものぢゃないか」
「…雰囲気」
「なんとなくは、分ッてはいるんだよ皆。そう思われるのも無理は無い。元元世間の落伍者で酒盛りを始めたのがきッかけなんだから。今でこそこうやッてまともに職にありついてる人間もいるが、最初の頃の僕たちを目の当たりにしちゃァ、懇意にして下さいと婦女子に懇願すること自体、恐れ多いことだヨ。今だッてこうやッて、身体を壊しているにも関わらず、職にもつかず飲み歩いている僕の事を、彼女は好く思ッていないだろうな。まぁ、面と向かッてそんなことは云わないけどサ」
「… ……」
「ハハハ、嫌々、気にすることは無い。芙蓉ちゃんが何も云ッていないなら、そういうことなんだろうさ。何も君が気に病むことは無い。イヤ、すまんかッた。僕も飲みすぎて少し口が滑ッたようだ。ほら、気分直しに君も沢山いきなよ?」
此の恒例の会合の場所となる古びた小さな平屋は、元々は他人の、もう十年近くも前に住んでいた老人の所有する物であッたが、或る日其の老人が行方を眩ました。丁度其の頃、平屋の近所の河原で頻繁に酒盛りをして居たのが、伊藤やナンシイを含む五人ほどの仲間で、そう云ッた縁で老人とは顔だけはお互い見知る関係であッた。
或る日、詰まり老人が失踪する前日にも伊藤らは河原で酒盛りをしており、その際に老人が伊藤らに近づき一言だけ云ッた事がある。
「わしはもう此の家はイランでェ、これからはアンタらが好きに使ッて呉れ」
酔ッた伊藤とナンシイは其の時は言葉の意味をハッキリと理解する事も無く、曖昧な空返事で相槌を打つばかりであッたが、その後も一向に家主の帰宅する事の無い家を横目に酒盛りを続けていくに当ッて、何時の頃からか誰とも無く其の家に足が向く様に成ッた。此れが今の会合の形の最初であり、此れを境に会合の入会者がボチボチと増えて行く事に成る。
平屋、と一言で云ッても、実際はトタンを張り合わせたばかりの、併しながら作りは割と丁寧な代物であるが、だからと云ッてこのような物にまで権利を主張する者が居ないのは、この橋下近くの死角と成ッた立地の良さからか、ハタマタこの平屋の存在を知ッていて見て見ぬ振りを決めてくれる足長の存在か、不法占拠している伊藤らにはついに知る由も無かッたが、兎に角此の平屋が依然立地している事は彼らにとって只只幸運であッた。
「電球は無いのかね」
Tableの真上に一つぶら下がッている裸電球を眺めながら伊藤が云った。
「あァ、デンキューを買うの、忘れたネ。」
サキイカを噛み千切りながらナンシイも電球を眺める。
「芙蓉に頼んでおけば良かッた」
「今から頼んだら好いぢゃないか」
「嫌、もう此方に向かッているらしい」
「… …橋田、チョット電球買ッてきてお呉れヨ」
「… ……」
「…嫌なのかい。」
「ものすごく睨んでいますネ(笑)」
「分ッた、分ッたよ。そんなに睨むなよ。マァまだ寿命が切れる事は無かろう。…併し、此の家もマァ色んな物が増えたよなァ。部屋の中が雑多過ぎてモウ訳がワカラン」
外から扉を開けると其所がもう会合の開かれている部屋である。部屋、と云ッても其所まで大層な物では無いが、此の部屋から更にもう一つ、奥にも部屋があり、其所には布団が幾つか敷いてあるので、酔ッて疲れた者は此方で休息をとる。
飲むこと意外に大勢で使われる事の無いこの平屋だが、人が多いと云うのは其れだけの人間模様が張り巡らされていると云う事、此所には会合以外でも一つの宿として使う者が多く、そうなれば矢張り生活する人間、玉に女連れと鉢合せする事もある、部屋には少しづつ色々な物が増えてくる。十幾年の歳月は記憶と雑貨を少しずつ増やしていッた。
「そろそろ…、エー、アァ、もう十年以上経ッているんですね、そう云えば」
「あ、もうそんなになるのか。ヘェ、そりゃ、物も増える分けだ」
「十年かァ…。皆年をとりましたね」
「アハハ、止めろよ、そんな云い方。僕らがトンでもない老人に成ッてしまッたようぢゃないか。」
「… …」
「橋田も何だかんだで長いよな、此所に来てから」
ナンシイが横目で橋田を見た。橋田は中中千切れないサキイカと格闘の最中だッた。
「橋田さんッて、この会合に何時から加わッたんでしたッけ」
「… ……」
「…また怒ッた」
「スミマセンッ」
「あれだろ。たしか若菜が連れてきたんぢゃないか」
「ア、そうだそうだ、思い出しました。そうだ、若菜君が連れて来たんだッたね。懐かしいなァ。モゥ、あの人ともメッキリ疎遠になッてしまッた…」
「今でも若菜とは連絡あるのかい?」
ナンシイが俯いている橋田を覗きながら云ッた。
「… ……いいえ。」
「そうか。まァ、もう日本を離れて大分と経つからなァ。色々と忙しいんだろうさ。もう僕らとはまるッきり住む世界が違う様に成ッちまッたなア」
「玉に電話をかけてみた事もあッたが、全く繋がらないしね」
「伊藤君はInternetで若菜と連絡をとる事はできないのか?」
「彼自身がSNSなどを利用する事が無いんだよ。メイルしても返ッてきた例が無い」
「オイオイ。死んでなきゃ可いがね」
橋田は遠慮がちにナンシイと伊藤の顔を少しずつ見た後、おもむろに手の中のCocktailを飲み干す。


****


既に酒の肴が彼らの囲むTableに散乱している。サキイカ、赤貝、柿ピイ、サラミ、かまぼこ、貝柱、カワハギ、蛸ワサ、えとせとら、えとせとら。肴は各々此れで十分だッた。素より安い舌から始まッた会合である。洒落たツマミなど無くとも面子と酒さえあればダラダラと時間を浪費出来る、詰まらない話題でも態々膨らませ馬鹿を云える様な、彼らはそういう連中であッたが、其れとは別にもう一方の肴もあれば尚更嬉しいと云うのは何処の世界も此れ万国共通の儀であッて、彼らとて例外では無い。また時として此方の肴と云うのは此れだけで満ち足りる場合も多々ある。今回の場合は其れが芙蓉の連れてきた友人と云う事につき、伊藤とナンシイは顔には出さぬが実際は心待ちにしていた所が多分にあるので、反面男心の分からぬ橋田は其処までは期待していないものの、矢張り何処かマンネリしていた空気に流れ込む一筋の風に対して気を掛けずには居られなかッた。
「芙蓉ちゃんは何飲む?」
ナンシイが奥のTableの上に置いてある袋に手を入れながら云う。
「私麒麟ラガアが好いわ」
「ハイヨ。んで、エーッと…」
「…小山です(笑)」
「ヘヘ…、小山さんは何が可い?」
「アタシ、お酒あまり飲めないので、… …橋田さんと同じ物を下さい」
小山は橋田の方を少し見て小さく挨拶をすると、橋田も多少動揺しつつ挨拶を返した。其れを見たナンシイは「アレ、橋田、なんでお前小山さんの事知ッてるんだヨ」と突ッ込みを入れる。そう云われてもう一度動揺する橋田がサキイカを食べるのを止めて小さく反論の言葉を紡ごうと口を開いた、其の枕に被せる様に小山がナンシイに云ッた。
「いえ、皆さんとは初対面ですヨ。其れはアノー、ネェ、芙蓉さん…」
小山は芙蓉の顔を追いかけて後を任せた。上着を畳んでいた芙蓉が其れを受け取ッて、
「以前から私が話していたんです。ホラ、此処に来る人ッて入れ替わりが多いじゃないですか。誰が誰だか分らなくなりそうで。だから最初に一通り話しておこうと思ッて。それに、リコちゃんも聞きたそうだッたしネ。」
「黒田さんと伊藤さんも直ぐに分りました」
申し訳なさそうに小山は小さくなる。
「ヘェ、ソイツは恐れいッたなア、」とナンシイは伊藤を見る。伊藤も口角を上げて愛想する。
「すぐに分られるなんて、なんだかオ尻がこそばゆいなア…」
「まァ、話したと云ッても、貴方達くらいな物ですケドネ。後数人」と芙蓉が席に座る。
「伊藤さんは、紳士な物腰で、黒田さんは……人懐ッこい感じですかネ…、橋田さんは、すごく物静かな印象だと」
後に続いて小山が空を見ながら芙蓉に云われた事を思い出す、と
「芙蓉ちゃん、此れは僕の直感だがッ、此の彼女の発言は多分ッ、かなり多分にオブラァトに包んである様お見受けしたが、どうだろうかッ」
ナンシイが直ぐに芙蓉の目の前にサキイカを突き出して云う。芙蓉は其の侭、口でサキイカを奪うようにして食べる、ナンシイは小山の方を向き無言で詰め寄る。
「エー、えぇ、…マァ、ヘヘ。マァ、人懐ッこいと云うか… …軟派、というか…マァ、其のような事を…芙蓉さんから…」
其れを聞いていた芙蓉が肩を竦めて片目を瞑り、舌をペロッと出す仕種。其れを見たナンシイは
「好い年した婦女子がそんな風にエイティイズ決めこんでも不可ッ」
と厳重注意。


****


あれや此れやと云う内に夜はどんどん更けていく。終電車も無くなる。会合は何時も朝方迄グダグダと続く事が多いが、早々終電車に乗ッて帰路に着く面子も居るには居て、其れが生活規則と云う物で毎回似た様な展開である。最終的に残る面子は大概決まッており、特に最近は面子の入れ替わりが滞ッている時期。今日は総勢五名と少ない面子であるが此れも左程珍しい事情では無い。伊藤、ナンシイ、橋田、芙蓉は何れも此処から徒歩の範囲に自宅があり(伊藤と芙蓉は同居して居る)又其の安心感が彼らを最終組にさせるのは至極当然の事である。
小山リコは芙蓉と同じ習い事、運動太極拳を習ッていて、其処で二人は一年前に知り合ッた。芙蓉の方が半年早く習い始めたものの、その後に入ッてきた小山とは境遇が殆ど違わないという事も手伝ッて気があッたのだが、実際は芙蓉と同様、小山も元元この会合の連中に合う気質を持ち合わせていた様である。流動する事の多い此の会合では、一度きりの参加で終わると云う事も多い中で今回の会合は大成功だッた。伊藤らも特に気負ッたりせずとも極自然に場を共有する事が出来たのは、矢張り彼女が芙蓉と同じ様なサバけた心底の持ち主だッたからに他ならない。
丑三ツ時も過ぎた頃には皆程好い風に酔ッた。伊藤も今日は久々に酔ッた。ナンシイの目は終始半開きの赤ら顔であッて、橋田はときおり舟を扱ぐ仕草。其の姿を見た芙蓉が「橋田さん大丈夫?」と橋田の肩を触りながら話かけるが、橋田はボウッとした顔面を上げて芙蓉に向かッて首をたてに振るのみ、
「アァ、橋田がそうなッたら、そろそろ眠たい時間だヨ」
ナンシイがGlassを持ッた手で橋田を指差す。芙蓉は橋田の顔を覗き込み額に手を当てる、何時の間にか床に落ちてしまッた橋田のCoatを拾ッてやる。
「奥に寝かせた方が好いかしら」
「そうだねェ」と伊藤。
こういう場面で、芙蓉は何時も甲斐甲斐しく他人の世話をする。此れは彼女生来の気質がそうさせる様で、その姿はとても慈悲深く恐らくは彼女の生き方を顕著に表している場面でもある。伊藤は缶ビイルを飲みながらナンシイと小山が話しているのを尻目に其の所作を眺める。
橋田の私物を鞄に入れる仕草や丁寧に服を畳む仕草、其の一つ一つは見ていて飽きない。寧ろ穏やかな気分になると云うのは、以前の伊藤の境遇では考えられない事であり、それだけ現在の伊藤自身、心身に余裕があると云う事なのであろう。
芙蓉が橋田の肩を助けて立ち上がッた時、橋田が思いの外フラ付いていた為、其処で改めて泥酔している事に気づく。
「オイオイ、橋田、今日は豪く酔ッ払ッているナァ。足元が覚束無いぢゃ無いか。」
「芙蓉、大丈夫かい?」
伊藤とナンシイが手伝おうとするが、
「エエ、大丈夫です。チョット、奥に寝かせてきます。サ、橋田さん、布団で寝ましょうネ」
フラフラと橋田が云われた通りに歩いていく。芙蓉がその両肩を軽く持ッて一緒に歩くのを、皆何気無く目で追いかけた。伊藤は芙蓉らが奥に引ッ込む迄見送ッて目線をTableに移すが、その時不図視線を感じた。其れは目の前に座ッている小山の視線だッた。
伊藤は酔ッた視線を何気なく其れに合わせてみたが、其の視線が直ぐに外される事は無ッた。ものの二三秒間、伊藤の眼を凝ッと見る小山の眼は好く潤み、薄く微笑していた。


****


残ッた四人の空けた酒の数は大層なものになッていた。伊藤とナンシイは相変わらずの大酒に加え、芙蓉も割りとイケル口である。意外なのは、あまり飲めないと最初に宣言をしていた小山が、其れとは間逆にCocktailをよく空けた事である。
酒の席と云うのは意識せずとも自然と他人の具合を気にしてしまう物であり、幾ら大酒を飲む者でも飲む相手が少酒ならば自然と自制する、相手が大酒を飲めば此方も普段より頑張ると云う暗黙の了解がある、小山の飲酒はそういッた意味で会合の皆を何時もより酔わせた。
「小山さんも結構飲むんだねエ」
椅子に深く体重をかけたナンシイが気ダルそうに云ッた。其れを聞いた芙蓉が小山に直ぐ茶々を入れる。
「アナタ、猫被ッてるんぢゃないわヨ」
「被ッてマセンヨー」
赤ら顔の伊藤は暫く続く二人の漫才を聞きながら、今日欠席した連中から届いたメイルに眼を通している最中である。
「誰か連絡寄越していたのかい?」
コレマタ赤ら顔で好い具合のナンシイが、云いながら伊藤のGlassに酒を注いでやる。
「イヤ、岡君と海田君が、今日は欠席スルと」
「アアそうなのか。併し今日は丁度良かッタ。面子も少ないから新入りさんとも好く話出来るからネ。賑やかなのも好いには好いが、あまりにも人が多いと皆とCommunicationが取り辛い上、場の収拾が付かん」
「確かにネ。其れに僕は最近はこうやッて少人数でチビチビやるのが気楽で好いヨ」
伊藤はオットット、と感謝を述べながら注がれた酒に一口付けた。
「思えば最初はこれくらいの面子でやッていたんだよなア。此の家を譲り受けてからは急速に人が増えていッたが、最近は思うように面子も揃わなくなッてきた。マァ皆まがりなりにも年を取ッて、其々段々とシガラミが増えて忙しくなッたと云う事か。」
「僕たちは何も変わッていないがネ」伊藤が直ぐに反論する。
「変わッてないモンか」
「そうかな」
「ウム。矢張り少しずつ変わッている気がするヨ。」
「どの辺がかね?」
「ウーン。そう改めて問われると、何所とは一様には云えないが… …」
「如何いう事だよ。少なくとも僕はそういう認識は無いけれど。昔の侭でありたいと思ッているがね。傲慢を戒めている。昨今は水知らずの人間には冷たい世の中だが、断じて僕はそうはありたくない。此の気持ちは昔から変わらないよ。例えこの思想が青臭いと人に云われようともネ」
「イヤ、君は何も変わッていないよ、多分ね。其れは分ッている。君の友人として、其れは僕が保障しよう。其れはそうなのだが、僕が云いたいのはそう云う事ではなくて…。……。ウーム、なんだか自分でも何を云ッているのか分らなくなッてきた」
「可笑しな事を云うナ君も」
其処でナンシイは酒を一気に飲み干す。女連中がオー、と歓声を上げ拍手喝采を送る。伊藤もアッ、と云い一寸対抗心が芽生えGlassに力が入ッたのだが、矢ッ張り思い直してGlassの淵を遠慮がちに舐めてみる。と、「私のですね、」と小山が乗り出し話題を変えた。
「私の、会社から直ぐ近くに、太極拳の教室が在るんですヨ、芙蓉さんと知り合ッた。其の教室から少し東に行くとJRの高架下にぶつかりまス。其の高架下の中に御飯を食べるところがあるんですよネ。其処がとても変わッていて、元元は倉庫だッたと思うんですケド入り口からは想像も付かない程店内が広くて、其処には円Tableが乱雑に配置されていて壁沿いに昔の米国コメディアンのポスタアが貼られていて、ソファアが並んでいたりするんです。店内の様式も、和洋が雑多に入り乱れて中国の獅子の置物や太極拳の雑誌、日本の水彩画が壁に掛かッているのかと思えば店内のBGMはオオルディイズなんです。」
「ヘェ。なんだか面白いところだねェ」
「後、猫を飼ッていて店内で放し飼いされています。月に何度か其処で色々なライブイベントなどもあるようで、レジの前にはフライヤァも沢山置いてあるんですヨ」
「面白そうですネ」
「多分皆さんはそういうの好きかなと思ッテ。今度一度行ってみません?」
「オオ、行こう行こう。そういう変な場所は大歓迎だネ」
「そんな所があッたの?私チットモ知らなかッたワ。」
と化粧ッ気のあまり無い赤い顔を向けて芙蓉が云う。
「済みません。結構好きキライが分れる所だと思ッたので、芙蓉さんに紹介するのを躊躇ッていたんです。私は大好きなお店なんですが」
「アラ。貴女、アタシに遠慮なんかしていたノ?失礼しちゃうワ」
「イエイエ、そういう分けでは無いんですケド…。…デモ、そういう芙蓉さんだッて、こんな楽しい会合がある事、今まで私にチットモ教えてくれなかッたぢゃ無いですカ」
「エー、マァ…。そうなんだけれど…」
此の二人の会話を、飲酒しながら聞くとも無く聞いていた伊藤とナンシイ。其其別の姿勢だッたものの、教えてくれなかッた、という小山の言葉を聞いて今日の最初の自身らのやり取りを思い出し、少なからず心は動揺。ナンシイが其れを悟られまいとして何時もよりほんの少し語気が上がッた事を伊藤だけが気づいていた。
「んぢゃァ、近い内に皆で約束して行ッてみようぢゃないか。イヤ、玉には別の場所で此の会合を開いてみるのも、新鮮で楽しいものだろう」
伊藤は其の提案に対する相槌も適当に、今日の会合が始まる前のナンシイの言葉を反芻していた。
芙蓉の我等に対する思いは一体どういうものなのか。今日の会合での彼女の態度を見る限りナンシイの意見が真実であるとは到底思えなかッたが、アア見えて彼女は本音を隠す傾向がある。其れは彼女の持ッている慈悲深い性質の裏返しであり、必ずしも悪意から出るものでは無かッたのだが、矢張り伊藤としては本心を自らに隠すと云う彼女の其れが心に引ッ掛かるのである。実際彼女と交際を始めてもう幾年も経過しているが、是迄も其の件に関する事件が全く無かッた分けでは無い。というよりも、伊藤と芙蓉の、数少ないイザコザの原因は其の殆どが彼女の其れに関する問題であッた。
彼女は人の事を思いやるあまり本心を云わない。又、其の慈悲深い性質から不満を自己の中に葬りさろうとする。併し其の為に伊藤との関係が悪化するだとか、彼女の心労が増え精神に支障をきたすとか、そういう事はなかッた。では二人のイザコザは一体どうやッて発生するのか。其の答えは簡単で伊藤が何時もイザコザの火種を吹ッかけるのだッた。伊藤は芙蓉の優しさ、他人への思いやりというものを是まで幾度も眼の当りにしてきた。そしてその彼女の精神に尊敬の念すら抱いている。だが其れと同時に、彼女の持つ、心の奥底に自身の不満を遠く沈めてしまうという性質、そして其の深淵には例え伊藤でさえも踏み込むのが困難だという事実に、彼は事あるごとに打ちのめされてきた。
何故僕にさえ全てを話してくれないのか、伊藤は何時もそう云ッて芙蓉に詰め寄る。その度に芙蓉は何時も、悲しそうな困ッた様な笑みを浮かべ、済みません、と小さく云ッた。其れでも中中語ろうとしない芙蓉。其れでも粘り強く会話を図る伊藤。彼女はそうしてやッと、少しずつ自身の本音を語り出すのである。今回も如何いう小さな考えを彼女は秘めているのだろうか。
伊藤はそう考えて多少辟易し現実逃避から戻ッたのだが、其処で又気づいた事があッた。先ほどから足首に何か生暖かい温度を感じる。其れは人のつま先だッだ。つま先が、伊藤の足首にぴッたりと寄り添ッている。伊藤がTableの肴に眼を移すと小山の顔が視界に入ッた。矢張り先ほどと同じ様に小山は此方を見ていた。酒気を程好く含み脱力した振舞い。離れる事の無い温度を伝えるTableの下のつま先。伊藤は考え込んでいた所に思いがけない事態を受け心を動揺に晒す。其れを隠そうとゆッくりとナンシイの前にあるサキイカに手をやるが、伊藤自身は普段は動揺と云うものにはあまり縁の無い男。何時もと殆ど変わりの無い所作で肴を摘んで返ると思われた刹那、中央に置いてあるビイル瓶を盛大に引ッ繰り返してしまッた。
それと同時に皆がTableの上の物を片付ける。
「オイオイ、君迄大丈夫かヨ(笑)」
酒に浸ッたサキイカを摘んでナンシイが云う。
「…済まない」
「服は大丈夫?」と芙蓉が布巾を持ッてきてTableを拭きながら云ッた。
「ウン、大丈夫だ。本当にゴメン」
「ハハ。君にしては珍しい事もあるもんダネ。矢張り今日は可愛い女の子が居るもんで飲みすぎてしまッたかい?少なくとも僕の方はそうだがね。こんなに楽しい会合は全く久々だよ」
芙蓉は布巾を水場で洗う、Tableを拭く、を幾度も繰り返している。ナンシイは濡れた肴や倒れたビイル瓶を忙しなくゴミ袋に詰めていた。小山も散乱したTableの上を整頓している。伊藤は一人其れを見るとも無く見て過ごした。どうやら今日は何時もより飲みすぎてしまッたのかもしれない、今日は少し浮かれ過ぎた、ガラにも無く、初対面の女性を前にして動揺している。もう少し自制しなければ不可無いな、と酔ッた頭の中で様々な思考が行ッたり来たりを繰り返す。そして、其れ故に又現実の行動が御座なりになる。
伊藤は髪をおもむろに掻いて、首を振って正気を保とうと眼を見開いた。と其の時、整頓をしていた目の前の小山の唇が伊藤に向かッて小さく動いた。
「 LOVE 」
小山の顔は深酒の所為か驚く程赤く昂揚して、眼は涙粒が毀れそうな色をしていた。そして其の瞳で伊藤を凝ッと見ている。伊藤の胸が物凄い音を立ててドックンと一つ鳴ッた。



 




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